サルトル―失われた直接性をもとめて (シリーズ・哲学のエッセンス) の感想
参照データ
タイトル | サルトル―失われた直接性をもとめて (シリーズ・哲学のエッセンス) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 梅木 達郎 |
販売元 | 日本放送出版協会 |
JANコード | 9784140093290 |
カテゴリ | 人文・思想 » 哲学・思想 » 西洋思想 » 西洋哲学入門 |
購入者の感想
こうした入門書シリーズすべてに言えることだが、入門書ほど難しいものはない。簡便な本として限られた紙幅で広くその思想家の仕事をカバーし、さらにはその同時代的な意義と歴史的な意義をも見定めるために、水平的かつ垂直的に著者に関連する議論をカバーしなくてはならないのだ。そして、それを初学者にもわかるような平易な言葉で語らなくてはならないのと同時に、幾多もある入門書に「屋上屋」を架す以上、単純化・ステロタイプ化が許されない。
昨年生誕100年を迎えたサルトルは、日本でもリバイバル・ブームがあった。他の入門書・新書も含めて、サルトル関連本は相当数を数えた。その最後の一書をなすのが、梅木達郎の『サルトル』だろう。そして、梅木『サルトル』は、その最後を飾るにふさわしい、「特異な入門書」となっている。
おそらくその最大の要因は、梅木自身があとがきでも記しているとおり、梅木が通常の意味ではサルトル研究者になりきれなかったことに由来する。梅木はサルトル世代(加藤周一や海老坂武など)とポスト・サルトル世代(三宅芳夫など)の中間に位置した「遅れてきたサルトリアン」であった。同時代的に熱中することもできず、しかし、距離を置いて純粋に過去の思想家として扱うこともできない。そうしたアンビヴァレンスを抱えたまま、しかもサルトルを離れて、ジュネやデリダへと向かった著者ならではの独特な距離感が随所に感じられる。
近代主義者からはサルトル的な〈強い主体〉の構築に基づくストレートな政治的コミットメントが絶賛され、ポストモダニストからは近代的主体批判と透明性・直接性への批判からサルトルは限界だと切り捨てられた。だが本当にそうなのか。梅木は、ジュネやデリダを経た視線からもう一度、かつてサルトルに入れ込んでいた自分に立ち返る。いまなお汲み尽くされていないサルトルの現代的意義を著者とともに「再読」するには絶好の本だ。
昨年生誕100年を迎えたサルトルは、日本でもリバイバル・ブームがあった。他の入門書・新書も含めて、サルトル関連本は相当数を数えた。その最後の一書をなすのが、梅木達郎の『サルトル』だろう。そして、梅木『サルトル』は、その最後を飾るにふさわしい、「特異な入門書」となっている。
おそらくその最大の要因は、梅木自身があとがきでも記しているとおり、梅木が通常の意味ではサルトル研究者になりきれなかったことに由来する。梅木はサルトル世代(加藤周一や海老坂武など)とポスト・サルトル世代(三宅芳夫など)の中間に位置した「遅れてきたサルトリアン」であった。同時代的に熱中することもできず、しかし、距離を置いて純粋に過去の思想家として扱うこともできない。そうしたアンビヴァレンスを抱えたまま、しかもサルトルを離れて、ジュネやデリダへと向かった著者ならではの独特な距離感が随所に感じられる。
近代主義者からはサルトル的な〈強い主体〉の構築に基づくストレートな政治的コミットメントが絶賛され、ポストモダニストからは近代的主体批判と透明性・直接性への批判からサルトルは限界だと切り捨てられた。だが本当にそうなのか。梅木は、ジュネやデリダを経た視線からもう一度、かつてサルトルに入れ込んでいた自分に立ち返る。いまなお汲み尽くされていないサルトルの現代的意義を著者とともに「再読」するには絶好の本だ。