井原西鶴 (人物叢書 新装版) の感想
参照データ
タイトル | 井原西鶴 (人物叢書 新装版) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 森 銑三 |
販売元 | 吉川弘文館 |
JANコード | 9784642050197 |
カテゴリ | » 本 » ジャンル別 » 文学・評論 |
購入者の感想
森銑三氏(1895~1985)は生涯の大半を在野で過ごした歴史家、書誌学者である。図書館や資料庫などから発掘した資料の研究をコツコツと積み重ね、
日本史を独自の視点で探究し大量の著書を刊行した。それらの著書は歴史小説家にとって執筆のうえでの基本資料、必須アイテムとして重宝されている。
そんな森氏の数多い著作のなかでもこの井原西鶴の評伝は特に有名である。その刺激的な内容で物議を醸し、アカデミズムを大いにゆさぶった問題作で
ある。
森氏は西鶴を敬愛しその人物と作品の研究につとめてきたが、その研究の結果彼はこのような結論を下す。「浮世草子の中で西鶴作品として扱われてい
るもののうち、実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』のみであり、それ以外は西鶴が監修をのみ行ったに過ぎない作品、もしくは西鶴の名義だけを借りた
偽作である」と。森氏は『一代男』を「ついにこれ高級文学であった」(119p)と高く評価し、その本質は「主人公のある長編俳文といってもよい」(113p)と指摘
する。俳諧師出身であった西鶴は当然の如く俳諧趣味の持ち主であり、その俳諧趣味が最良の形で結実している作品が『一代男』だと見なした。アカデミズ
ムには以前から「『一代男』は『源氏物語』を俗化したもの」という説が存在するが森氏はこれを否定、「『伊勢物語』に倣ったのであった」(111p)と主張する。
『一代男』を長編俳文のつもりで書いていたのなら歌物語の古典である『伊勢物語』に倣うのは当然である、と森氏は考えたのだ。森氏は西鶴と『一代男』を
愛するがゆえにこの傑作が正しく理解・評価されていないとし「西鶴文学の真価は、まだまだ知られていないのである」(120p)と嘆いてみせる。
では『一代男』以外の作品への森氏の評価はというと、これが実に手厳しい。『諸艶大鑑』は「あまり好感の持たれぬ書物」(141p)、『大下馬』は「ついに噛
みしめた味わいに乏しい」(151p)、『好色五人女』は「軽佻で、浮華で、(中略)底力を欠いている」(177p)、『本朝二十不孝』は「結末が見え透いていて面白
日本史を独自の視点で探究し大量の著書を刊行した。それらの著書は歴史小説家にとって執筆のうえでの基本資料、必須アイテムとして重宝されている。
そんな森氏の数多い著作のなかでもこの井原西鶴の評伝は特に有名である。その刺激的な内容で物議を醸し、アカデミズムを大いにゆさぶった問題作で
ある。
森氏は西鶴を敬愛しその人物と作品の研究につとめてきたが、その研究の結果彼はこのような結論を下す。「浮世草子の中で西鶴作品として扱われてい
るもののうち、実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』のみであり、それ以外は西鶴が監修をのみ行ったに過ぎない作品、もしくは西鶴の名義だけを借りた
偽作である」と。森氏は『一代男』を「ついにこれ高級文学であった」(119p)と高く評価し、その本質は「主人公のある長編俳文といってもよい」(113p)と指摘
する。俳諧師出身であった西鶴は当然の如く俳諧趣味の持ち主であり、その俳諧趣味が最良の形で結実している作品が『一代男』だと見なした。アカデミズ
ムには以前から「『一代男』は『源氏物語』を俗化したもの」という説が存在するが森氏はこれを否定、「『伊勢物語』に倣ったのであった」(111p)と主張する。
『一代男』を長編俳文のつもりで書いていたのなら歌物語の古典である『伊勢物語』に倣うのは当然である、と森氏は考えたのだ。森氏は西鶴と『一代男』を
愛するがゆえにこの傑作が正しく理解・評価されていないとし「西鶴文学の真価は、まだまだ知られていないのである」(120p)と嘆いてみせる。
では『一代男』以外の作品への森氏の評価はというと、これが実に手厳しい。『諸艶大鑑』は「あまり好感の持たれぬ書物」(141p)、『大下馬』は「ついに噛
みしめた味わいに乏しい」(151p)、『好色五人女』は「軽佻で、浮華で、(中略)底力を欠いている」(177p)、『本朝二十不孝』は「結末が見え透いていて面白