古代史謎解き紀行III: 九州邪馬台国編 (新潮文庫) の感想
参照データ
タイトル | 古代史謎解き紀行III: 九州邪馬台国編 (新潮文庫) |
発売日 | 2014-07-28 |
製作者 | 関 裕二 |
販売元 | 新潮社 |
JANコード | 9784101364780 |
カテゴリ | 歴史・地理 » 日本史 » 一般 » 日本史一般 |
購入者の感想
興味を惹いた部分を記す。
.邪馬台国の位置は、九州を制する高良山、女山に守られた「山門」である。倭人伝に目を奪われる必要はなく九州を支配する「戦略」拠点はどこかということである。
.弥生時代の日本列島の中で最も栄えていた地は、北部九州特に、西側の沿岸地帯であった。稲作文化が華開いた時代であったが対馬の海人は、朝鮮半島との交易を行っていた。「奴国」と「対馬」は、兄弟関係にあった。そして、「対馬」と「出雲」」の関係もあった。「安曇氏の志賀島」で後漢からの金印が発見されたのは、象徴的である。
.「日本書紀」によると神功皇后は、越(敦賀)を経由して北部九州へ入っている。これに対し、北部九州沿岸東側の首長は、恭順の意を示した。出土する土器は殆んどが「畿内」の土器である。それ以前に九州の要衝「日田」がヤマトに押さえられていたのだ。(出土する土器は、やはり「畿内」の土器である)
また、筑後川流域北側で出土する土器は、庄内式土器、墳墓も前方後円墳と纏向とほぼ重なる。
.大まかに言って遠賀川の東西で文化圏が異なるが東側は、縄文以来の伝統を引き継いだ弥生前期的な色彩が濃い。
これに対し西側は、稲作・大型甕棺が普及する。
.宗像三神は、神功皇后との所縁が深い。つまり、ヤマト朝廷との繋がりがある。また、宗像三神は、香春神社・香椎神宮・宇佐神宮・住吉大社とも因縁が深い。
.天皇家の故地が何故、南九州か。それは、北部九州を追われ「日田」から湯布院を抜け宮崎県側を伝い鹿児島に逃れたのである。
天孫降臨とは、「筑紫の日向の高千穂峯」(日本書紀)。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」(古事記)となっている。高千穂峰は、宮崎県臼杵郡高千穂町と宮崎県・鹿児島県の霧島山系の二つがある。
.記紀の「海幸・山幸神話」では、隼人の祖と天皇家の祖は、同根としている。
.纏向の前方後円墳は、北部九州の豪奢な埋葬文化が加わっている。
地政学、流通及び「海」(=海外貿易・海人)の視点からの分析は、説得力がある。
.邪馬台国の位置は、九州を制する高良山、女山に守られた「山門」である。倭人伝に目を奪われる必要はなく九州を支配する「戦略」拠点はどこかということである。
.弥生時代の日本列島の中で最も栄えていた地は、北部九州特に、西側の沿岸地帯であった。稲作文化が華開いた時代であったが対馬の海人は、朝鮮半島との交易を行っていた。「奴国」と「対馬」は、兄弟関係にあった。そして、「対馬」と「出雲」」の関係もあった。「安曇氏の志賀島」で後漢からの金印が発見されたのは、象徴的である。
.「日本書紀」によると神功皇后は、越(敦賀)を経由して北部九州へ入っている。これに対し、北部九州沿岸東側の首長は、恭順の意を示した。出土する土器は殆んどが「畿内」の土器である。それ以前に九州の要衝「日田」がヤマトに押さえられていたのだ。(出土する土器は、やはり「畿内」の土器である)
また、筑後川流域北側で出土する土器は、庄内式土器、墳墓も前方後円墳と纏向とほぼ重なる。
.大まかに言って遠賀川の東西で文化圏が異なるが東側は、縄文以来の伝統を引き継いだ弥生前期的な色彩が濃い。
これに対し西側は、稲作・大型甕棺が普及する。
.宗像三神は、神功皇后との所縁が深い。つまり、ヤマト朝廷との繋がりがある。また、宗像三神は、香春神社・香椎神宮・宇佐神宮・住吉大社とも因縁が深い。
.天皇家の故地が何故、南九州か。それは、北部九州を追われ「日田」から湯布院を抜け宮崎県側を伝い鹿児島に逃れたのである。
天孫降臨とは、「筑紫の日向の高千穂峯」(日本書紀)。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」(古事記)となっている。高千穂峰は、宮崎県臼杵郡高千穂町と宮崎県・鹿児島県の霧島山系の二つがある。
.記紀の「海幸・山幸神話」では、隼人の祖と天皇家の祖は、同根としている。
.纏向の前方後円墳は、北部九州の豪奢な埋葬文化が加わっている。
地政学、流通及び「海」(=海外貿易・海人)の視点からの分析は、説得力がある。
著者の歴史紀行文を読んだのは初めてです。とても面白く、歴史について考える宝庫がいっぱい詰まった名著だと実感しました。今回は北九州を中心に邪馬台国との関連についても大胆に考察しています。「魏志倭人伝」の解読は歴史学者の膨大な研究の蓄積がありますが、著者は『日本書紀』を中心に神話的記述の分析から邪馬台国九州説を裏付けていきます。歴史紀行では実際に北九州と島を旅して自分の目で確かめて邪馬台国女王卑弥呼と壱与との関係を緻密に考察しています。どの章も面白く、従来誰も気付かなかった発見や知見を随所で述べています。著者の大胆な推論により邪馬台国からヤマト政権への移行が見事に説明されています。歴史学者にとって実証困難な神話解釈こそ歴史小説家の腕の見せ所であり、その点において著者の見事な推論には頭が下がる思いですが、疑問点が残るとすれば、「魏志倭人伝」の邪馬台国の位置に関する記述です。帯方郡から邪馬台国までの旅程と距離について、著者は歴史家の説を取り上げながらも、自己の解釈は提示していません。歴史家にとって頼りになる文献は「魏志倭人伝」しかないのですから、邪馬台国の位置に関する自己の文献的解釈を提示する必要があることはもちろんのこと、考古学的知見と照らし合わせての考証も必要です。歴史学者にとって神話や伝説の解釈による推論は決定的証拠とはならず、仮説にしかすぎないものです。この点について著者の神話的解釈による推論は実証性においてやや物足りなさを感じさせます。しかし、著者の歴史的推論は歴史家が分析を避ける盲点を突いたものであり、その点ではすばらしい出来栄えです。多くの歴史ファンに本書を薦めます。