やがて哀しき外国語 (講談社文庫) の感想
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参照データ
タイトル | やがて哀しき外国語 (講談社文庫) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 村上 春樹 |
販売元 | 講談社 |
JANコード | 9784062634373 |
カテゴリ | 文学・評論 » エッセー・随筆 » 日本のエッセー・随筆 » 近現代の作品 |
購入者の感想
外国で研修中に日本語が恋しくなり、ついKindleでぽちっと購入。米文学を翻訳する村上春樹ですら、英語での会話は不自由を感じるという点を読んで慰められる。アメリカの個人的で自由な風土を居心地がいいと思う反面、異邦人でコミュニティの主要メンバーでなくコミュニケーションもとれない辛さ、外国にいる哀しさ。あと面白かったのは、米国人エリートはスノッブ、表面的な人種差別はしないが、階級的な差別意識は強く、階級≒人種の場合多い。
おもしろいと思えるのは、共感する部分とそういう考え方もあるのかとと感心する部分がけっこう含まれていたからかもしれません。アメリカという国とそこで生きる自分を冷静に、でも楽しみながら見つめて綴っています。差別や偏見を感じることもあると書かれていましたが、それも含めてのアメリカ、いえ、それ以上におもしろいアメリカということでしょうか。日本はいいところがたくさんある国だけど、外国に行くと違う考え方もあるのだと知って、それぞれの良さを感じますよね。
本書は、1990年から約3年間の、村上春樹氏のプリンストン滞在記である。
エッセーなので、村上春樹氏のファンならば、気楽に読んで楽しむことができる。
しかし、このエッセーの裏には、村上春樹氏にとっての言語についての深い苦悩が隠されているようだ。
具体的には、プリンストン滞在を通じ、村上春樹氏にとって、日本語とは何かを自問自答することになったという。
『でもただひとつ真剣に真面目に言えることは、僕はアメリカに来てから日本という国ついて、あるいは日本語という言葉についてずいぶん真剣に、正面から向かい合って考えるようになったということである』
その結果、長い外国生活を通じて、村上春樹氏は、作家になって以来築き上げた自分の日本語の文体がいとおしくなったという。
『自分の考える日本語の姿というものが見えてきたように思う』
これは、村上春樹氏が、自分を表現する言語として日本語に自明性があると感じるようになったということだろう。
そういう中での外国暮らしで、このエッセーのタイトルの「やがて哀しき外国語」に込めた意味は、
『僕が本当に言いたいのは、自分にとって自明性を持たない言語に何の因果か自分がこうして取り囲まれているという、そういう状況自体がある種の哀しみに似たものを含んでいるということだ』
ということだ。
外国語に取り囲まれた状況というのは、自らを表現する言葉を失った状況ということであり、ストレンジャーである哀しみを言っているのであろう。
この哀しみは、外国生活だからとあるというものではない。
『一人の人間として、一人の作家として、僕はおそらくこの「やがて哀しき外国語」を抱えてずっと生きていくことになるだろう』
村上春樹氏はたとえ日本にいてもストレンジャーとしての哀しみから自由になれないことを言っている。
言語と真剣に向き合う作家の姿がここにあると思った。
エッセーなので、村上春樹氏のファンならば、気楽に読んで楽しむことができる。
しかし、このエッセーの裏には、村上春樹氏にとっての言語についての深い苦悩が隠されているようだ。
具体的には、プリンストン滞在を通じ、村上春樹氏にとって、日本語とは何かを自問自答することになったという。
『でもただひとつ真剣に真面目に言えることは、僕はアメリカに来てから日本という国ついて、あるいは日本語という言葉についてずいぶん真剣に、正面から向かい合って考えるようになったということである』
その結果、長い外国生活を通じて、村上春樹氏は、作家になって以来築き上げた自分の日本語の文体がいとおしくなったという。
『自分の考える日本語の姿というものが見えてきたように思う』
これは、村上春樹氏が、自分を表現する言語として日本語に自明性があると感じるようになったということだろう。
そういう中での外国暮らしで、このエッセーのタイトルの「やがて哀しき外国語」に込めた意味は、
『僕が本当に言いたいのは、自分にとって自明性を持たない言語に何の因果か自分がこうして取り囲まれているという、そういう状況自体がある種の哀しみに似たものを含んでいるということだ』
ということだ。
外国語に取り囲まれた状況というのは、自らを表現する言葉を失った状況ということであり、ストレンジャーである哀しみを言っているのであろう。
この哀しみは、外国生活だからとあるというものではない。
『一人の人間として、一人の作家として、僕はおそらくこの「やがて哀しき外国語」を抱えてずっと生きていくことになるだろう』
村上春樹氏はたとえ日本にいてもストレンジャーとしての哀しみから自由になれないことを言っている。
言語と真剣に向き合う作家の姿がここにあると思った。
これからアメリカに住むんだけど、アメリカでの暮らしの雰囲気を伝えてくれる本ってないかな。そんなことを考えている人には、最適な本です。
実は、私自身がそういう状況の下で、こういうことを伝えてくれる本を探したんですけど、生活上の視点から見たアメリカ観が書かれている本というのは意外に見つからないのです。例えば、同著者の「遠い太鼓」(これはヨーロッパの話だけど)、「うずまき猫の見つけ方」などは暮らしの雰囲気が伝わるというよりは、旅行記であって、旅行の内容を時系列的に書き連ねている。
これに対して、「やがて哀しき外国語」では、とりあげている題材が、旅行というよりは、よりアメリカの日常に近いものであるように思います。たとえば、アメリカのローカルな新聞とその面白かった記事についてとか。そしてその切り口も、政治解説者の切り口というよりは、一市民の切り口といった感じになっています。政治や、歴史や、経済を、大上段から分析していくのであれば、そういう分野のアメリカについての本格評論みたいな本は山のようにありますが、こういう普通のアメリカの生活者の観点を伝えてくれる本というのはなかなかない。
この意味で、アメリカ生活の感触を知りたいという人には、本当に興味深い本だと思います。
実は、私自身がそういう状況の下で、こういうことを伝えてくれる本を探したんですけど、生活上の視点から見たアメリカ観が書かれている本というのは意外に見つからないのです。例えば、同著者の「遠い太鼓」(これはヨーロッパの話だけど)、「うずまき猫の見つけ方」などは暮らしの雰囲気が伝わるというよりは、旅行記であって、旅行の内容を時系列的に書き連ねている。
これに対して、「やがて哀しき外国語」では、とりあげている題材が、旅行というよりは、よりアメリカの日常に近いものであるように思います。たとえば、アメリカのローカルな新聞とその面白かった記事についてとか。そしてその切り口も、政治解説者の切り口というよりは、一市民の切り口といった感じになっています。政治や、歴史や、経済を、大上段から分析していくのであれば、そういう分野のアメリカについての本格評論みたいな本は山のようにありますが、こういう普通のアメリカの生活者の観点を伝えてくれる本というのはなかなかない。
この意味で、アメリカ生活の感触を知りたいという人には、本当に興味深い本だと思います。