TAO 永遠の大河 1: OSHO老子を語る の感想

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タイトルTAO 永遠の大河 1: OSHO老子を語る
発売日販売日未定
製作者OSHO
販売元いまここ塾
JANコード9784309911410
カテゴリ人文・思想 » 哲学・思想 » 東洋思想 » 東洋哲学入門

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購入者の感想

OSHO(晩年にあたる1988年に、バグワン・シュリ・ラジニーニの名から変更)の言葉を記した本は、暫くの間、すごく読みたいのだけど、片や読むのに相当の覚悟がいるなといった感じを抱いていた。
そういう感覚は、実は、最初に彼の『存在の詩』を読んだ時から生じていたと言えるだろう。
彼の言葉に触れてしまえば、他の本を読む必要性がほぼなくなってしまうということが何となく自分自身でわかっていたから…だと思う。
同時に、そのことは、これまで、読んできた本をきれいに忘れ去り、培ってきた知識もリセットに至るのかもしれないということを意味していた。
それは、即ち、私の中が、より“空っぽ”に近づくということである。

今ならわかる。“空っぽ”、それは、恐怖の対象などではないということが。
“空っぽ”、それは、無尽蔵という根源、大宇宙にそのまま通じるものなのである。
「 空っぽの心は神の心だ
それは〈無心〉だ。
虚ろになりなさい
中空の竹のようにー
ひとつの虚として生きなさい 」

仏陀が完全であるのなら、老子は全体(トータル)であった。
仏陀が完璧であるのなら、老子はごく“あたり前”の存在であった。
「 しかし、あたり前であるということは
本当に最もあたり前でないことだ
何の努力も役立たない
無努力性が必要だ
何の稽古も役立たない
無方法、無手段が役に立つ
ただ“理解”することー
………
ただ生をそのありのままに“理解”すること
そして、生というのは反対同士の緊張を
反対同士の出会いを通じて存在するものなのだ
もし反対のものを拒絶すれば
あなたは完璧にはなれる
が、トータルではあるまい
あなたは何かのがしている 」

老子は、“あたり前”の存在として、生き、老い、死んでいった。
それは、誰に対しても媚びたり羨んだりしない野に咲く名もなき花のようでもあり、
ただ瞬間瞬間に集中して生きたということである。

この講話はどこをとっても意味深くて俯瞰的に書くのはとても難しい。だから全体ではなく、ある一場面をとって書きたい。

最初にOSHOが老子について語る前にまずブッダやマハーヴィーラ、キリスト、ツァラトゥストラ達に対するOSHO自身の思いを語るが、そのシーンから心震わせるものがあった。これはきっと何か貴いものに違いない。そう思った。

どの語りも魅力的だが、特にブッダに対する話は美しいと思った。

ブッダは油のない炎のように常に天に向かい続けて、地上的なものは何も残さない。
それは恋愛のように。どれほど近づいても決して距離は埋まらない。愛し合う者の苦しみ。

こういった風にブッダを語れるのは、本当にブッダを心から愛しているOSHOならではと思った。

この部分は英語原作の方を読んでいた時も「良い詩だな……」とは思っていたが、日本語訳で読んで改めて美しいと感嘆するものがあった。

そして、ここから老子の話がスタートする。
OSHOにとって老子は他人ではないという。そこに距離はなく、もはや恋愛すら起こらない程に。
現代を生きる老子が老子を語る。
老子は今も生き続けている。

OSHOの老子講話を改めて出版された事をとても喜ばしく思う。続巻も楽しみにしている。

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