空海の風景〈上〉 (中公文庫) の感想
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参照データ
タイトル | 空海の風景〈上〉 (中公文庫) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 司馬 遼太郎 |
販売元 | 中央公論社 |
JANコード | 9784122020764 |
カテゴリ | ジャンル別 » 文学・評論 » 文芸作品 » 日本文学 |
購入者の感想
いつか再読しようと思いながら本棚から手にしなかった司馬さんの『空海の風景』を読むことにした。
この本は、2006年にAmazonで購入したと記億しているから再読するのが12年ぶりになる。
12年という時を隔てるとたいがいその内容のほとんどは忘れているものである。
が、空海についての足跡についてはもともと知識としてある程度持っていたから、本書を読みはじめても違和感なく読み進むことになった。
ただ、著者の司馬さんが「空海の風景」とした意図が理解できる手法(客観視しながら史実以外は想像するという)小説作法の作品であったことは忘れてしまっていた。
司馬さんは、空海に関した多くの資料を神田古書店界隈からトラック一杯入手して(世に喧伝されていることですから真偽のほどは分かりませんが)意気込んでこの小説に取り掛かったことが伝わってくる。
空海は『御請来目録』など多くの資料を残しているが、司馬さんは事の真偽を疑うことはないにしても、空海の性格として多少脚色して残していることを指摘している。
空海は生まれるべき時代に生まれ、空海を高く評価するひとたちにも恵まれ、その天才的な資質をどのように生かすかを知り抜いて行動したのではないかとも思える。
あざとい打算も働かせた、ある意味嫌な面をも持ち合せた若者だったように想像してしまう。
評者が本書を初めて読んだ時にはこのような感じを持った記憶がなく、あらためて読むことにより異なった空海像が現れたのです。
「和尚、乍チ見て、笑ヲ含ミ、喜歓シテ曰く、我、先ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ久シ。今日相見ル、大好シ、大好シ」
上の「」内は、空海がはじめて恵果に会ったときの言葉として『御請来目録』に記録されている。
空海はしたたかであり、自分の才能が恵果に伝わるまで長安で5ゕ月も活動したことからも機略に優れた若者だったようである。
司馬さんもこれは偶然ではなく、空海の意図的な行動だったように描写していた。
この本は、2006年にAmazonで購入したと記億しているから再読するのが12年ぶりになる。
12年という時を隔てるとたいがいその内容のほとんどは忘れているものである。
が、空海についての足跡についてはもともと知識としてある程度持っていたから、本書を読みはじめても違和感なく読み進むことになった。
ただ、著者の司馬さんが「空海の風景」とした意図が理解できる手法(客観視しながら史実以外は想像するという)小説作法の作品であったことは忘れてしまっていた。
司馬さんは、空海に関した多くの資料を神田古書店界隈からトラック一杯入手して(世に喧伝されていることですから真偽のほどは分かりませんが)意気込んでこの小説に取り掛かったことが伝わってくる。
空海は『御請来目録』など多くの資料を残しているが、司馬さんは事の真偽を疑うことはないにしても、空海の性格として多少脚色して残していることを指摘している。
空海は生まれるべき時代に生まれ、空海を高く評価するひとたちにも恵まれ、その天才的な資質をどのように生かすかを知り抜いて行動したのではないかとも思える。
あざとい打算も働かせた、ある意味嫌な面をも持ち合せた若者だったように想像してしまう。
評者が本書を初めて読んだ時にはこのような感じを持った記憶がなく、あらためて読むことにより異なった空海像が現れたのです。
「和尚、乍チ見て、笑ヲ含ミ、喜歓シテ曰く、我、先ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ久シ。今日相見ル、大好シ、大好シ」
上の「」内は、空海がはじめて恵果に会ったときの言葉として『御請来目録』に記録されている。
空海はしたたかであり、自分の才能が恵果に伝わるまで長安で5ゕ月も活動したことからも機略に優れた若者だったようである。
司馬さんもこれは偶然ではなく、空海の意図的な行動だったように描写していた。
司馬遼太郎の作品はほとんど読んだつもりでいたが、『空海の風景』(司馬遼太郎著、中公文庫、上・下巻)が未だだったことに気づき、慌てて手に取った。
そこには、お馴染みの司馬遼太郎の世界が広がっていた。それも、従来の作品よりも徹底された状態の世界が。司馬は、「あたりまえのことだが、私はかれ(空海)を見たことがない。その人物を見たこともないはるか後世の人間が、あたかも見たようにして書くなどはできそうにもないし、結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光を当ててその起状を浮かびあがらせ、筆者自身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できはしないかと期待した」と言っていたのに、書き上げたものでは空海と司馬が渾然一体となっているのである。司馬の前世が空海だったのか、空海が司馬として生まれ変わったのかというぐらい一体となっている。
司馬を真似て断定的に表現するならば、空海というのは、相当に嫌な性格の持ち主である。少なくとも、近くにいて楽しい人ではない。その最大の被害者は、真面目一方で、先輩でありながら後輩の空海に謙虚に教えを乞うた最澄であった。空海の勝手なライヴァル視に遭って、最澄は本当に気の毒である。
そこには、お馴染みの司馬遼太郎の世界が広がっていた。それも、従来の作品よりも徹底された状態の世界が。司馬は、「あたりまえのことだが、私はかれ(空海)を見たことがない。その人物を見たこともないはるか後世の人間が、あたかも見たようにして書くなどはできそうにもないし、結局は、空海が生存した時代の事情、その身辺、その思想などといったものに外光を当ててその起状を浮かびあがらせ、筆者自身のための風景にしてゆくにつれてあるいは空海という実体に偶会できはしないかと期待した」と言っていたのに、書き上げたものでは空海と司馬が渾然一体となっているのである。司馬の前世が空海だったのか、空海が司馬として生まれ変わったのかというぐらい一体となっている。
司馬を真似て断定的に表現するならば、空海というのは、相当に嫌な性格の持ち主である。少なくとも、近くにいて楽しい人ではない。その最大の被害者は、真面目一方で、先輩でありながら後輩の空海に謙虚に教えを乞うた最澄であった。空海の勝手なライヴァル視に遭って、最澄は本当に気の毒である。