正法眼蔵〈2〉 (岩波文庫) の感想
192 人が閲覧しました
参照データ
タイトル | 正法眼蔵〈2〉 (岩波文庫) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 道元 |
販売元 | 岩波書店 |
JANコード | 9784003331910 |
カテゴリ | 人文・思想 » 宗教 » 仏教 » 仏教入門 |
購入者の感想
前提として、「仏」=「空」は超時空であり世界に「如」(=空色同時現成)として顕れる。「色」には「空」の裏打ちがある。
但し、我々は「我」をたて対象的に見るためそれを個々の実体と見誤まる。
我々は、「時」の正体を知らないでいるが、道元の「有時」とは、「時」と「有」は一つであり「仏」(=空色同時現成としての「如」)の顕れとする。それは、「仮象」とも呼ばれる。
なので、「仏」」と「世界」と「自己」は一つである。
つまり、「世界」は「自己」の顕れである。そしてそれは、「一如」(=仏性の仮の顕れ)である。
森羅万象は、「自己」である。
例えば、見ている草木は或る一つのものではない。
本来、その草木が全てである。全世界であり、全宇宙である。草木の中に草木以外のあらゆるものが尽く入っている。過去とか未来とかも入っている。
「自己」、「時」、「世界」(=有)は、一つであり「自己」は草木として顕れている。「主客一如」である。
「有時」は、本来去来するものではない。
あらゆる「有」は、連なっている。あらゆる「有」は、一つのものである。
そして、「有時」は去来しないが仮に、去来という形式を以って顕れる。
つまり、今の「有時」の中に、今の「有時」以外の一切の「有時」が入るはたらきがある。
道元は、その事を「経歴」と云うのである。
なので、「有時」は必ず、一方(=今の「有時」)として顕れる。そして、今以外の「有」は、その中に隠れている。
「現成公案」に、「一方を証すれば一方はくらし」とある。
「有時」に、今日より今日に、明日より明日に経歴するという件があるが、それは「有時」は去来するように見えているが本来、去来しないという事を示すためである。
時は、流れない。到来する有、過ぎ去る有はない(不来不去)のである。
「時」は、不可逆に直線的に流れるものではない。
宇宙にあるものに直線進行はなく回転あるのみである。直線とは、人為である。
それは、円環であり「無始無終」である。
但し、我々は「我」をたて対象的に見るためそれを個々の実体と見誤まる。
我々は、「時」の正体を知らないでいるが、道元の「有時」とは、「時」と「有」は一つであり「仏」(=空色同時現成としての「如」)の顕れとする。それは、「仮象」とも呼ばれる。
なので、「仏」」と「世界」と「自己」は一つである。
つまり、「世界」は「自己」の顕れである。そしてそれは、「一如」(=仏性の仮の顕れ)である。
森羅万象は、「自己」である。
例えば、見ている草木は或る一つのものではない。
本来、その草木が全てである。全世界であり、全宇宙である。草木の中に草木以外のあらゆるものが尽く入っている。過去とか未来とかも入っている。
「自己」、「時」、「世界」(=有)は、一つであり「自己」は草木として顕れている。「主客一如」である。
「有時」は、本来去来するものではない。
あらゆる「有」は、連なっている。あらゆる「有」は、一つのものである。
そして、「有時」は去来しないが仮に、去来という形式を以って顕れる。
つまり、今の「有時」の中に、今の「有時」以外の一切の「有時」が入るはたらきがある。
道元は、その事を「経歴」と云うのである。
なので、「有時」は必ず、一方(=今の「有時」)として顕れる。そして、今以外の「有」は、その中に隠れている。
「現成公案」に、「一方を証すれば一方はくらし」とある。
「有時」に、今日より今日に、明日より明日に経歴するという件があるが、それは「有時」は去来するように見えているが本来、去来しないという事を示すためである。
時は、流れない。到来する有、過ぎ去る有はない(不来不去)のである。
「時」は、不可逆に直線的に流れるものではない。
宇宙にあるものに直線進行はなく回転あるのみである。直線とは、人為である。
それは、円環であり「無始無終」である。