修業論 (光文社新書) の感想

324 人が閲覧しました
アマゾンで購入する

参照データ

タイトル修業論 (光文社新書)
発売日2013-07-17
製作者内田 樹
販売元光文社
JANコード9784334037543
カテゴリジャンル別 » 人文・思想 » 哲学・思想 » 哲学

購入者の感想

相変わらずに内田節で楽しめた。

身体の使い方を理解するためには、あらかじめ説明する手段は無く、愚直に型を繰り返し、ある日突然悟る事で身につく、というのは確かにその通りだな、と思ったりもする。例えば自転車の乗り方は、一応の型はあるものの、自分が体で理解する以外に習得する方法は無く、補助輪付ける、後ろを持ってもらう等の型を繰り返すことで身につくわけで、各種修行で身につく身体感覚というのも同じような事なんだろうなと思う。

また、著者が書いてあるとおり、この本は様々な要素が雑多に入っている幕の内弁当のような本だけど、何のために修行をするのか、ということについては一貫しているため、様々な角度で修行について考えることができる本とも言える。

ちょっと断定的になりますが、次のように感じました。

修行とは、学びの一つのあり方である。
「なんのためにこの稽古をするのか」「この稽古をするとどんなメリットがあるのか」といったゴールを示され取り組むのは、修行ではない。したがって修行では目的を見失うのは簡単であり、修行とは常に挫折と背中合わせの学びである。
しかし修行は、何者にも限定されない学びであり、その点で人が大化けする素地にもなり得る。
逆に目的志向は、学びの中身を限定することになり、学びの成果をも限定することにもなる。

著者は20代の時、自らが打ち込んだ合気道とレヴィナス哲学に「同じもの」を感じたが、それを言葉にすることはできなかった(p178)。30年の歳月を経て、両者は「危機を生き延びる力を育む智慧」として統一的に把握され、武道家であり思想家である著者の立ち位置を示すものになった。「合気道には試合がない。勝敗や強弱を論じない。技の巧拙についても、誰それは巧いとか下手だというような批評的言辞を口にしてはならない」(79)。それはなぜか。勝率、得点、順位、あるいは筋力、心肺機能など数値の向上で達成度を評価する、スポーツの身体「強化」とは根本的に違うからである。合気道では、稽古しているうちに、「取る」「受ける」「勝つ」というような他動詞的関係、つまり主体と客体の二元論的な関係は姿を消す。戦う二人が二人でなくなり、「頭が二つ、体幹が二つ、手が四本、足が四本のキマイラ的な生物が<ひとり>いる」状態に(142)、つまり、私と相手が一つの「複素的な身体」になる。対戦している二人は、相手に「同期し」共振するから、二人の身体で一つの構造が作り出され、「運動の中心になる一点、全身の張力や斥力が均衡する一点」(153)が生まれ、それは「気の結びを丹田(たんでん)の前にとらえる」(154)と呼ばれる。二人の身体が、個々の身体には不可能であった新しい秩序を生み出し、「我なし、敵なし」(155)が実現するところに、合気道の神髄がある。だから、合気道の稽古の過程では、「私の身体にはこんな部位があって、こんな働きをするのかという、驚きに満ちた発見が繰り返し起こり」(172)、これこそが「修業」の核心なのである。一方、レヴィナス哲学は、「人間の生身(なまみ)の身体感覚の上に構築された体系」であり、人間社会の「正義と慈愛のバランスを取る」というデリケートな調整は、法律や規則によっては決して実現できず、身体をもった個人の皮膚感覚に任せるしかないことを明らかにした。レヴィナスの稀有の「身体性の哲学」は合気道の精神と深く呼応し合う。

あなたの感想と評価

コメント欄

関連商品の価格と中古

修業論 (光文社新書) を買う

アマゾンで購入する
光文社から発売された内田 樹の修業論 (光文社新書)(JAN:9784334037543)の感想と評価
2018 - copyright© アマゾン通販の感想と評価 all rights reserved.