仁徳天皇:煙立つ民のかまどは賑ひにけり (ミネルヴァ日本評伝選) の感想
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参照データ
タイトル | 仁徳天皇:煙立つ民のかまどは賑ひにけり (ミネルヴァ日本評伝選) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 若井敏明 |
販売元 | ミネルヴァ書房 |
JANコード | 9784623074198 |
カテゴリ | 歴史・地理 » 日本史 » 一般 » 日本史一般 |
購入者の感想
第16代天皇、仁徳天皇の評伝。最も記録の少ない5世紀前半の人物であり、「民のかまど」の逸話に代表される伝説のベールにつつまれた帝王だけに
その実像に迫るのはなかなか容易なことではないと思えるが、古代史研究のエキスパートである著者若井氏もあとがきでその苦労を率直につづっ
ていて、ページ数こそ180ページそこそこだがなかなかの労作といえる。
まず仁徳天皇の生没年だが、若井氏は西暦390年頃誕生、432年に43歳くらいで崩御した、としている。『日本書紀』では80年以上にわたって在位しとてつ
もない長寿を誇ったとされているが実際のところ天皇(大王)在位は10数年くらいであったようだ。仁徳天皇ことオオサザキ皇子の天皇即位は決してスムー
ズなものではなかった。415年頃父帝応神天皇が崩御するがその後約6年にわたって皇位の空白という異常事態が起きる。有力な3人の皇子による皇位の
争奪戦が発生、それを勝ち抜いて皇位を掴み取ったのがオオサザキ皇子であった。しかし皇位に就いてからも仁徳(オオサザキ)帝には自分の皇位継承
の正当性への不安があったようだ。記紀には仁徳帝が様々な女性に手を出して妃に迎えようとしていたという逸話が数多く掲載されているが、若井氏はこ
れは単なる漁色と見るのは誤りだという。仁徳には皇族出身の妃がいなかったという事実があり、自身の皇位継承の正当性を担保するためにはどうしても
皇族出身の妃が必要だった。皇后磐之媛に先立たれた後仁徳が皇后として立てたのは異母妹の八田皇女であった。
仁徳帝は「倭王讃」として中国の宋王朝(劉宋)に朝貢していた。一方、西暦431年には朝鮮半島の新羅へ出兵、新羅のライバル百済との友好関係を強める
など活発な外交政策を推進していた。ただ、実際のところ友好関係にあった百済との付き合いも微妙なものであった。当時の倭国(日本)は朝鮮半島の南
端部に任那という海外領を持っていたがそれは百済の領土の一部を奪ったものであった。百済としては同盟国である倭国の支援がなければライバル新羅
その実像に迫るのはなかなか容易なことではないと思えるが、古代史研究のエキスパートである著者若井氏もあとがきでその苦労を率直につづっ
ていて、ページ数こそ180ページそこそこだがなかなかの労作といえる。
まず仁徳天皇の生没年だが、若井氏は西暦390年頃誕生、432年に43歳くらいで崩御した、としている。『日本書紀』では80年以上にわたって在位しとてつ
もない長寿を誇ったとされているが実際のところ天皇(大王)在位は10数年くらいであったようだ。仁徳天皇ことオオサザキ皇子の天皇即位は決してスムー
ズなものではなかった。415年頃父帝応神天皇が崩御するがその後約6年にわたって皇位の空白という異常事態が起きる。有力な3人の皇子による皇位の
争奪戦が発生、それを勝ち抜いて皇位を掴み取ったのがオオサザキ皇子であった。しかし皇位に就いてからも仁徳(オオサザキ)帝には自分の皇位継承
の正当性への不安があったようだ。記紀には仁徳帝が様々な女性に手を出して妃に迎えようとしていたという逸話が数多く掲載されているが、若井氏はこ
れは単なる漁色と見るのは誤りだという。仁徳には皇族出身の妃がいなかったという事実があり、自身の皇位継承の正当性を担保するためにはどうしても
皇族出身の妃が必要だった。皇后磐之媛に先立たれた後仁徳が皇后として立てたのは異母妹の八田皇女であった。
仁徳帝は「倭王讃」として中国の宋王朝(劉宋)に朝貢していた。一方、西暦431年には朝鮮半島の新羅へ出兵、新羅のライバル百済との友好関係を強める
など活発な外交政策を推進していた。ただ、実際のところ友好関係にあった百済との付き合いも微妙なものであった。当時の倭国(日本)は朝鮮半島の南
端部に任那という海外領を持っていたがそれは百済の領土の一部を奪ったものであった。百済としては同盟国である倭国の支援がなければライバル新羅