本が多すぎる (文春文庫) の感想
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参照データ
タイトル | 本が多すぎる (文春文庫) |
発売日 | 2014-06-10 |
製作者 | 酒井 順子 |
販売元 | 文藝春秋 |
JANコード | 9784167901271 |
カテゴリ | 文学・評論 » エッセー・随筆 » 著者別 » さ行の著者 |
購入者の感想
本書の「商品の説明」(このページの上)には、「現代女子から渋いおじさん、歌舞伎にエロに親子関係まで、世相を的確に捉える名エッセイストが綴る読み応えたっぷりの書評集」とあり、具体的には「母と娘、野心と老い、部活にSMに歌舞伎、そして震災。週刊文春の名物連載をオリジナル文庫化」したものとある。著者は「世相の奥に漂う微妙な空気を、鮮やかな言葉にして絶大な共感を得てきた“現代の清少納言”」と形容されているが、本書を通常一般に観られる「書評」と同様の趣旨と言うには躊躇がある。端的に言えば「書評」が先にあるのではなくて、著者の日常の生活を綴るに「書評」を中心に据えたエッセイと呼ぶべきであろう。約8年半に及ぶ前記連載において、本書は本文約510ページの大作で取り上げた本の数は約300点弱であるが、取り上げた全ての本の「書評」というのではなくて、数は多くはないが、同じ著者の続編や類書を取り上げた際に書名のみ言及するものもあるので、実質的なトピック数は右よりも若干少ないはずである。
本書の「商品の説明」(このページの上)には、「現代女子から渋いおじさん、歌舞伎にエロに親子関係まで、世相を的確に捉える名エッセイストが綴る読み応えたっぷりの書評集」であり、「母と娘、野心と老い、部活にSMに歌舞伎、そして震災。週刊文春の名物連載をオリジナル文庫化」したものとある。著者は「世相の奥に漂う微妙な空気を、鮮やかな言葉にして絶大な共感を得てきた“現代の清少納言”」と形容されているが、本書を通常一般に観られる「書評」と同様の趣旨と言うには躊躇がある。端的に言えば「書評」が先にあるのではなくて、著者の日常の生活を綴るに「書評」を中心に据えたエッセイと呼ぶべきであろう。約8年半に及ぶ前記連載において、本書は本文約510ページの大作で取り上げた本の数は約300点弱であるが、取り上げた全ての本の「書評」というのではなくて、数は多くはないが、同じ著者の続編や類書を取り上げた際に書名のみ言及するものもあるので、実質的なトピック数は右よりも若干少ないはずである。
私などが一般にイメージする「書評」と本書が異なるのは、やはり内容に対する批判や異論などが本書には殆ど見えないことだろう。私が知る女性エッセイスト・コラムニストのナンシー関や辛酸なめ子氏等は、時にストレートに時にアイロニックに世事・風俗批評の利いた筆致が印象的であるが、本書は右著者らの作品とはベクトルが正反対と言っても良い。語弊を承知で言えば、筆致に毒(支障)のない通常運転の日常的読書エッセイと言えよう。恐らく好みは別れようが、肩が凝らない読み物としてまた将来の読書の手引きともなるであろうが、「書評」部分に批判ーー読者としては「書評」を謳っている以上、取り上げた作品の欠点部分、著者の主観的評価や本音を期待するーーが殆ど見えないことは、私見ながら評価を落とした部分でもある。
私などが一般にイメージする「書評」と本書が異なるのは、やはり内容に対する批判や異論などが本書には殆ど見えないことだろう。私が知る女性エッセイスト・コラムニストのナンシー関や辛酸なめ子氏等は、時にストレートに時にアイロニックに世事・風俗批評の利いた筆致が印象的であるが、本書は右著者らの作品とはベクトルが正反対と言っても良い。語弊を承知で言えば、筆致に毒(支障)のない通常運転の日常的読書エッセイと言えよう。恐らく好みは別れようが、肩が凝らない読み物としてまた将来の読書の手引きともなるであろうが、「書評」部分に批判ーー読者としては「書評」を謳っている以上、取り上げた作品の欠点部分、著者の主観的評価や本音を期待するーーが殆ど見えないことは、私見ながら評価を落とした部分でもある。