日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書) の感想

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タイトル日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)
発売日販売日未定
製作者阿満 利麿
販売元筑摩書房
JANコード9784480056856
カテゴリジャンル別 » 人文・思想 » 宗教 » 宗教入門

購入者の感想

これは腑に落ちた快著です。
日本人の無宗教というキーワードから始まり、日本人の宗教、宗教観の歴史、信仰の変遷、意義について説き、日本人論にもなっています。

あなたの宗教は何ですかと聞かれると日本人の70%が「無宗教」と答えます。
しかし、その75%が「宗教心は大切」と答えます。
日本人は、キリスト教徒が考える無神論者ではありません。

宗教とは、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことです。
著者は、宗教を 「創唱宗教(教祖と教義があって、それを信じる人たちがいる)」と、「自然宗教(昔からあって自然発生的なもの)」に分けています。
死んだあとにお世話になる宗教を 「葬式宗教(主に仏教)」とも言っています。

日本人の「わたしは無宗教」 と言う回答は、「私は、キリスト教・仏教・新興宗教など創唱宗教の信者ではありません」「創唱宗教に対する無関心」という意味です。
宗教心・信仰心がないわけではありません。

古来のアニミズム的な自然崇拝の神道が、ムラ(部落)という単位の和を維持するために、厚く信仰されていました。
その後、仏教の伝来があり、神仏習合が進み、江戸時代の寺請制度によって村ごとの檀家制度が固定化していきました。

日本人は、神道に現世利益を、仏教には死後の安楽を祈っています。
神道は、先祖から受け継がれきた土着宗教であり、祖先や自然への崇拝かはありますが教義・教典・教祖はありません。
外来宗教である仏教は、葬式仏教として利用しています。
中世以降は、神仏習合でうまく使い分けています。

日本人の持つ神仏習合の宗教心・信仰心を歪めたのは、明治維新による中央集権国家形成のために利用された「国家神道」による神仏分離の分断政策があります。
また大東亜戦争の敗戦よって国家神道が完全否定されたことも原因です。

日本人は歴史的に、明治に輸入された宗教という言葉に当てはまらない豊かな精神生活を育んできたのではないでしょうか。

 日本人の宗教観に関する古典的な本。それが新書版で手軽に読める。ありがたいものだ。日本人の七割が無宗教で、その七五%が「宗教心は大切」と答えるらしい。無神論ではない。著者は自然宗教と創唱宗教に区別して考える。キリスト教、仏教、新興宗教などは創唱宗教である。日本人の多くは、キリスト教などの信者ではないという意味で、自分が無宗教だと答える。我々は無意識に、宗教を習慣や儀礼と教義や布教に分けて考える。習慣や儀礼なら宗教ではなく抵抗もない。かくして初詣や七五三や地鎮祭は神社、お盆や葬式は仏教、クリスマスや結婚式はキリスト教というシンクレティズム(混交宗教)となる。それに対して教義は私たちに人生を奥底まで見つめよと迫る。日本人は抵抗を感じる。「喜びも苦しみも悲しみもほどほどに生きている。人生をかきまわされたくない」と。無宗教は自己防衛の表現だという。
 かつて日本人は宗教に熱心だった。「この世は夢。後生の救いをください」という祈りにあふれていた。著者は、日本人が宗教に無関心になってきた過程で、室町時代に入った儒教が大きな役割を果たしたとしている。しかし儒教の本格的な受容は江戸中期だ。戦国から安土桃山、江戸初期にあって、人々の持つ「いかに死ぬか。後生でいかに救われるか」という思いは、一向宗やキリスト教の豊かな苗床だった。
 無宗教者は、自然宗教の積極的な信者であることが多い。無宗教を自認する人でも墓参りに熱心だ。墓参りは自然宗教に属する宗教行為に他ならない。死者をホトケと称するのは仏教本来の教えではない。日本の自然宗教そのもの。ホトケとは伝統的なカミであるらしい。仏教は高度な哲学体系をもった宗教というより、死という穢れをぬぐいさる最新の呪術の体系として受容された。

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