新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) の感想
参照データ
タイトル | 新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) |
発売日 | 2013-12-26 |
製作者 | 千葉 乗隆 |
販売元 | KADOKAWA / 角川学芸出版 |
JANコード | 登録されていません |
カテゴリ | ジャンル別 » ノンフィクション » 思想・社会 » 思想 |
購入者の感想
私はこれまで「世界の名著」(中央公論社)と「日本古典文学大系」(岩波書店)の二つの版で『歎異抄』を読んできたが、本書は両版をはるかに凌いでわかりやすい。
ほぼ完璧に近い達成――といっても、褒めすぎにはなるまい。
まず、<本文>があり、ページ下段には<略註>が付される。
そしてさらに、各条が終わるごとに、校訂者の記す<要旨>がくる。
本文の後ろには、<現代語訳>および校訂者の<解説>が載っている。
いまの時代に『歎異抄』を読もうとするとき、これ以上は考えられないほどの配慮がなされているから、どんな人でも(若い人でも、浄土真宗以外の人たちでも)親鸞の<こころ>に接することができる。
いちばん有名な第三条――《善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや》を例にとろう。
<要旨>にはこうある。
《阿弥陀仏の救いの主対象は悪人であるという主張は、悪人正機【あくにんしょうき】と称され、浄土真宗の教義の特色の一つである》(17ページ)
そして<解説>を読むと、親鸞の師・法然の伝記(『法然上人伝記』)に、同様の記述があると記されている。
《「此の宗(浄土宗)は、悪人を手本と為し、善人まで摂する也」……「善人なほもつて往生す、いはむや悪人をやの事。【法然の】口伝にこれあり」……
法然が源智に口伝した……言葉を、親鸞も法然から口伝され、親鸞はそれを唯円【ゆいえん】に伝え、これを唯円はさらに『歎異抄』に書きしるしたのであった》(131〜2ページ)
では、この悪人正機説は何を伝えようとしていたのか?
<現代語訳>は、以下のようになっている。
《善人でさえ浄土に行けます。まして悪人が行けないことはありません。……
ほぼ完璧に近い達成――といっても、褒めすぎにはなるまい。
まず、<本文>があり、ページ下段には<略註>が付される。
そしてさらに、各条が終わるごとに、校訂者の記す<要旨>がくる。
本文の後ろには、<現代語訳>および校訂者の<解説>が載っている。
いまの時代に『歎異抄』を読もうとするとき、これ以上は考えられないほどの配慮がなされているから、どんな人でも(若い人でも、浄土真宗以外の人たちでも)親鸞の<こころ>に接することができる。
いちばん有名な第三条――《善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや》を例にとろう。
<要旨>にはこうある。
《阿弥陀仏の救いの主対象は悪人であるという主張は、悪人正機【あくにんしょうき】と称され、浄土真宗の教義の特色の一つである》(17ページ)
そして<解説>を読むと、親鸞の師・法然の伝記(『法然上人伝記』)に、同様の記述があると記されている。
《「此の宗(浄土宗)は、悪人を手本と為し、善人まで摂する也」……「善人なほもつて往生す、いはむや悪人をやの事。【法然の】口伝にこれあり」……
法然が源智に口伝した……言葉を、親鸞も法然から口伝され、親鸞はそれを唯円【ゆいえん】に伝え、これを唯円はさらに『歎異抄』に書きしるしたのであった》(131〜2ページ)
では、この悪人正機説は何を伝えようとしていたのか?
<現代語訳>は、以下のようになっている。
《善人でさえ浄土に行けます。まして悪人が行けないことはありません。……
歎異抄の現代語訳付きの本は色々出ているようである。
ざっとアマゾンで見たところ、講談社学術文庫のものが良く売れているようである。
梅原氏の解説と合わせて、歎異抄の世界に浸れるからであろうことがレビューからも良く分かる。
しかし、私はあえてこの角川本の方が良いと主張したい。
正直な所、歎異抄は鎌倉期の仏教に関する著作であり、いくら現代語訳しても、分からない部分が出てくるのは仕方が無いと思う。
しかし、講談社学術文庫のように解説までつけてしまうと、一見分かった気になるが、その実、単に解説者の解釈を本来の意味と取り違えているだけというパターンを往々にして見かける気がする。
特に梅原氏は仏教思想に昔から傾倒しているためか、幾分贔屓の引き倒しのような所があり、これを歎異抄の理解だとあまり公言されると、浄土真宗の方々自体も閉口されてしまうのではなかろうか。
歎異抄は、決して親鸞の教えの要約ではない。親鸞の教えは教行信証などで示されており、それと比べると、齟齬がでるような部分も少ないのだ。それでも、教行信証を読むよりは短くて読みやすいという理由で歎異抄を読むというのは分かる。
だから、読むのであれば、せめて元の文章に誠実に向き合ってほしい。原文とは言わなくても、現代語訳と注釈までで十分だと思う。解説は行き過ぎである。
歎異抄を読みたいのであれば、こちらの方が薄いし、自分で考えて読めるという意味でお勧めである。
少なくとも浄土真宗では歎異抄について補足的な資料としてみなしていて、教えの中心をなす資料とは見ていない。
それを承知の上でこの本を読まれる分には、分量的にも少なく、浄土真宗関係資料に触れるきっかけとしては良いのではないだろうか。0
ざっとアマゾンで見たところ、講談社学術文庫のものが良く売れているようである。
梅原氏の解説と合わせて、歎異抄の世界に浸れるからであろうことがレビューからも良く分かる。
しかし、私はあえてこの角川本の方が良いと主張したい。
正直な所、歎異抄は鎌倉期の仏教に関する著作であり、いくら現代語訳しても、分からない部分が出てくるのは仕方が無いと思う。
しかし、講談社学術文庫のように解説までつけてしまうと、一見分かった気になるが、その実、単に解説者の解釈を本来の意味と取り違えているだけというパターンを往々にして見かける気がする。
特に梅原氏は仏教思想に昔から傾倒しているためか、幾分贔屓の引き倒しのような所があり、これを歎異抄の理解だとあまり公言されると、浄土真宗の方々自体も閉口されてしまうのではなかろうか。
歎異抄は、決して親鸞の教えの要約ではない。親鸞の教えは教行信証などで示されており、それと比べると、齟齬がでるような部分も少ないのだ。それでも、教行信証を読むよりは短くて読みやすいという理由で歎異抄を読むというのは分かる。
だから、読むのであれば、せめて元の文章に誠実に向き合ってほしい。原文とは言わなくても、現代語訳と注釈までで十分だと思う。解説は行き過ぎである。
歎異抄を読みたいのであれば、こちらの方が薄いし、自分で考えて読めるという意味でお勧めである。
少なくとも浄土真宗では歎異抄について補足的な資料としてみなしていて、教えの中心をなす資料とは見ていない。
それを承知の上でこの本を読まれる分には、分量的にも少なく、浄土真宗関係資料に触れるきっかけとしては良いのではないだろうか。0