魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書) の感想
参照データ
タイトル | 魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書) |
発売日 | 販売日未定 |
製作者 | 渡邉 義浩 |
販売元 | 中央公論新社 |
JANコード | 9784121021649 |
カテゴリ | 歴史・地理 » 世界史 » アジア史 » 中国史 |
購入者の感想
邪馬台国について記述された『魏志倭人伝』は、言うまでもなく中国の史書である。だから、当時の中国人の立場から書かれている。その政治的な目的や世界観がこめられ、筆者である陳寿の教養が反映される。著者は中国古代史を専門として『三国志』をはじめ当時の文献に通じる。本書は、『魏志倭人伝』を著した中国の立場からその内容を読み解いていく。
『三国志』で「倭」は夷狄伝の中でも特別な扱いを受ける。文字数が一番多くて内容が詳細である。また卑弥呼が賜与された「親魏倭王」の称号は破格であるという。この理由として、魏が戦っていた呉の海上支配に対抗する勢力として、魏が倭に期待をかけたことはすでに定説化している。また、魏を引き継いだ西晋の司馬氏の祖、司馬懿(しばい)を顕彰する意味がこめられていることを中国大陸の複雑な政治情勢から説明される。
このため、倭は魏の期待に応じられる場所に位置して、ある程度礼の備わった大国であるが藩国であるという理念的なイメージを持って描かれる。
『倭人伝』では、邪馬台国は会稽郡東冶県の東方海上に存在すると明記される。これは現在の福建省福州市の東ということになりほぼ沖縄の位置にあたる。これにより呉の背後を窺えることになる。邪馬台国が帶方郡から1万2千里の距離になるというのも測定されたものとは考えにくく、天下を「方1万里」とし外側を「荒域」とする当時の中国の世界観から導かれた理念的な数字であること、そして倭国の東方に所在する諸国も理念的なものであることが、文献から説かれる。
倭国は中国の東南に位置するという理念は、風俗の描写において影響を与える。陳寿が参考にしただろう文献にある東南地方の風俗記述と『魏志倭人伝』の記述が一致する箇所が次々と挙げられていく。
また、儒教の礼に沿った見地からの風俗描写も再三指摘される。そこから藩国ながら礼の整った地として好意的な評価が下されていることがわかる。
『三国志』で「倭」は夷狄伝の中でも特別な扱いを受ける。文字数が一番多くて内容が詳細である。また卑弥呼が賜与された「親魏倭王」の称号は破格であるという。この理由として、魏が戦っていた呉の海上支配に対抗する勢力として、魏が倭に期待をかけたことはすでに定説化している。また、魏を引き継いだ西晋の司馬氏の祖、司馬懿(しばい)を顕彰する意味がこめられていることを中国大陸の複雑な政治情勢から説明される。
このため、倭は魏の期待に応じられる場所に位置して、ある程度礼の備わった大国であるが藩国であるという理念的なイメージを持って描かれる。
『倭人伝』では、邪馬台国は会稽郡東冶県の東方海上に存在すると明記される。これは現在の福建省福州市の東ということになりほぼ沖縄の位置にあたる。これにより呉の背後を窺えることになる。邪馬台国が帶方郡から1万2千里の距離になるというのも測定されたものとは考えにくく、天下を「方1万里」とし外側を「荒域」とする当時の中国の世界観から導かれた理念的な数字であること、そして倭国の東方に所在する諸国も理念的なものであることが、文献から説かれる。
倭国は中国の東南に位置するという理念は、風俗の描写において影響を与える。陳寿が参考にしただろう文献にある東南地方の風俗記述と『魏志倭人伝』の記述が一致する箇所が次々と挙げられていく。
また、儒教の礼に沿った見地からの風俗描写も再三指摘される。そこから藩国ながら礼の整った地として好意的な評価が下されていることがわかる。
魏・呉・蜀の三国志の正史を魏が正統となるようにまとめたのが陳寿の著した「三国志」である。
蜀の東方にある大月氏国は落陽から1万6千里余りにあることから、倭国は落陽から1万7千里余りの呉の背後に設定され、倭国は会稽東冶(会稽郡東冶県)の東にあるべきとしている。それが、帯方郡から1万2千余里である。そのために南方系の要素が強まっている。また、中華思想や儒教思想により事実とは異なる記述も盛り込まれている。
「不弥国までは、国と国との距離が里数で表現されているにも拘わらず、不弥国から投馬国(水行二十日)、投馬国から邪馬台国(水行十日、陸行一月)」と表記方法が異なっているが、これは邪馬台国が中国(九服の内側)の外、九服の最も外側「荒服」のさらにさきにある未開の国であるためとしている。そのために、邪馬台国に至る最も重要な部分の里数が分からずに、九州説と大和説を生む原因になっている。
しかし、伊都国に「大率」を置いていることから、都がある邪馬台国は伊都国から遠く離れた大和にあったとしている。
そういわれても、「不弥国から邪馬台国までに残された距離が千三百里しかない」のに、いくら道も整備されていない未開の国を行くのに不弥国から投馬国まで水行二十日、投馬国から邪馬台国まで水行十日、陸行一月も掛かったのでは千三百里を遥かに越えてしまっていよう。
中国書籍や中国の思想などの記述には説得力があるが、邪馬台国の位置は始めに大和説ありきといった印象を与えている。
「其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗。」は先行する書物はないだろうが、「女王国東、渡海千余里、復有国。皆倭種。」が引用なら、どの書物からなのかを示してほしいところだ。
蜀の東方にある大月氏国は落陽から1万6千里余りにあることから、倭国は落陽から1万7千里余りの呉の背後に設定され、倭国は会稽東冶(会稽郡東冶県)の東にあるべきとしている。それが、帯方郡から1万2千余里である。そのために南方系の要素が強まっている。また、中華思想や儒教思想により事実とは異なる記述も盛り込まれている。
「不弥国までは、国と国との距離が里数で表現されているにも拘わらず、不弥国から投馬国(水行二十日)、投馬国から邪馬台国(水行十日、陸行一月)」と表記方法が異なっているが、これは邪馬台国が中国(九服の内側)の外、九服の最も外側「荒服」のさらにさきにある未開の国であるためとしている。そのために、邪馬台国に至る最も重要な部分の里数が分からずに、九州説と大和説を生む原因になっている。
しかし、伊都国に「大率」を置いていることから、都がある邪馬台国は伊都国から遠く離れた大和にあったとしている。
そういわれても、「不弥国から邪馬台国までに残された距離が千三百里しかない」のに、いくら道も整備されていない未開の国を行くのに不弥国から投馬国まで水行二十日、投馬国から邪馬台国まで水行十日、陸行一月も掛かったのでは千三百里を遥かに越えてしまっていよう。
中国書籍や中国の思想などの記述には説得力があるが、邪馬台国の位置は始めに大和説ありきといった印象を与えている。
「其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗。」は先行する書物はないだろうが、「女王国東、渡海千余里、復有国。皆倭種。」が引用なら、どの書物からなのかを示してほしいところだ。